2012年3月9日金曜日

三國志の関羽についてなんですが、けっこう演技に左右されている意見が多いようで...

三國志の関羽についてなんですが、けっこう演技に左右されている意見が多いようで、例えば関羽は文醜を討ち取ってませんよね?
実際は史実で曹仁の軍が討ち取ってるはずです。そして華雄も陽人で孫堅軍に討ち取られていますし… 残りの武功である顔良も関羽に劉備からの手紙を渡そうとしたら問答無用で斬られたらしいですが、実は関羽は思ったより活躍していないのでは?だったら親友であり合肥の守将である張遼の方が評価されるべきではないですか?

まあ、魏志伝の筆者の過大な魏ひいきもあると思いますが・・・

長くなりすみません。

質問は、皆さんは関羽をどのような点で評価しますか? 商売の神様以外の評価でお願いいたします。







関羽の評価は当代より実に輝かしいものでしたよ。

死後間もなくより、評価を受けたのはその武勇であり

西晋~隋代にかけて三国時代の豪傑といえば関羽・張飛が当然のように

上がるほどに歴史書からの評価も高いです。



その武勇によって関羽はまず武神となり、宋~明代にかけて著しい封号を

各王朝より与えられ清代の

大々的な宣伝を受けて、関羽は今の栄光にあります。



商売の神という面は比較的新しい神格ですよ。

華僑の方の海外移住に伴い、信義に厚く、自分達の財を守ってくれるほどの

強さを持つ武財神関羽に随伴を願い、遥か故郷より離れた異郷の地においても

本土を想える英雄として関羽は

商売繁盛の神の側面も持つ神様にもなったのです。

言わば、華僑の方の守護神のような存在ですね。



関羽はアウトロー臭漂う、暴力的な人物の側面の匂いもありますが

同時に彼は当時より、非常に他者との仁義を重んじました。

この面は今でも、香港マフィアの間でも

評価され、関羽は任侠徒の神にもなっているのです。



私が思うに関羽は中国人のあらゆる美徳概念に

ぴったりと当てはまる英雄だと推測いたします。

中国の方にとっての三国演義とは

一介の小説程度の扱いではなく、多種多様な人物の

生き様に煌々の光がある人生の教科書だ、という人も居ます。

その三国演義において既に高名な神の座にあった関羽は特別な扱いを受け

多種多様な見せ場が盛り込まれました。

これは元々、関羽が歴史上においても秀でた力を持った人物であり

それを自分達の美徳概念に照らし合わせた

当時の中国人による神格化とは別方面の

関羽に対する敬意のようなものなのではないでしょうか?



忠を尽くすべき人を決して裏切らず、剛毅。

それゆえの人間的弱点を露呈し滅亡しますが

化かし合いなどという、姑息さとも無縁な生き方をしていた事も

評価を受ける一因になっていたと思います。



三国演義での特別扱いも、高位の神に上がった事も

元々は正史の記述を評価されたことより始まってるので

私は現代にまで伝わる「関羽」の全てを評価し、彼を中国が

誇る偉大な大英雄と評価いたします。








史実の評価、つまり正史『三國志』で関羽がどのように書かれているか…という事でよろしいですね?

では、関羽の軍歴を『三國志』に従ってざっと振り返りましょうか。



関羽は劉備が故郷で徒党を集めた時に、張飛とともに護衛官となります。劉備が平原の相になると、正式に別部司馬となり軍指揮官になります。

呂布に徐州を奪われて曹操の元へ逃げ込み、その後再び車冑を殺して徐州を乗っ取ると、劉備は関羽に下ヒ[丕β]の城を任せ、太守の事務を代行させました。



その後、曹操に攻められて劉備が袁紹の元に逃亡すると、関羽は曹操の捕虜となり、偏将軍に任命されます。そして官渡の戦いに従軍し、張遼とともに顔良を斬ります。

この時の様子は簡潔を旨とする陳寿には珍しく「顔良の旗印を発見すると馬に鞭打ち、大軍の真っ只中で顔良を刺し、首を斬り取って帰ってきた。袁紹の諸将のうちで(関羽の)相手になれる者はおらず、かくて白馬の包囲は解かれた」と臨場感たっぷりです。



荊州に移ってからは、曹操の南征で劉備軍は南に逃れますが、関羽は唯一水軍を率いています。赤壁の戦いの後、関羽は襄陽太守・盪寇(とうこう)将軍となり、長江の北に駐屯させ、益州を平定すると関羽に荊州の全権を任せます。

前将軍に任じられ、曹仁の守る襄陽を陥とし、救援に来た于禁を捕らえホウ悳を斬り、曹操に許都からの遷都を考えさせるほど、中原を震撼させました。



正史『三國志』には、関羽が飲み食いして談笑しながら肘を切開手術させた話や、孫権が息子の縁談を求めたのを侮辱して怒らせた話なども載っています(注ではなく本文です)。

武勇にすぐれ武功が多く、豪放磊落で尊大で自信家で、その自信ゆえに生命を落としたとはっきり書かれています。

張遼とは甲乙つけがたいですが、強いて言えば、張遼は孫権に遷都を考えさせるまで至っていませんね。







当時屈指の名将であることは疑いようがありません。張遼と比しても決して見劣りしません。荊州の失陥も関羽のミスというより呉への外交的配慮を怠った劉備の責任、それに呂蒙(と陸遜)が荊州に攻め入る手際があまりに優れていた。そっちのほうが大きい。その手紙云々なんてどう考えても嘘っぱちです。普通に考えて戦場で出会うことを前提に手紙を頼む馬鹿なんかいやしませんよ。密使か何かに頼んだほうがよっぽど確実です。ちなみに文醜を討ったのは荀攸と曹操ですね。

ここ最近は演義で過大に持ち上げられてる人物が逆に過小評価されてる気がしてなりません。演義で有名な人物は正史でも基本的に優れた人物ですよ。中立的に判断したいなら演義と比べてあれこれ言う無意味な考えを捨てたほうがよろしいかと。演義は演義、正史は正史。全くの別物です。比べたところで全く意味を為さない。あと陳寿が魏贔屓を際立たせてるのは本紀だけです。他は至って中立的に見えますが。むしろ蜀贔屓のほうが目立ちます。







正直言って私は関羽をそれほど高く評価はしてないですね。

荊州の防衛の失敗は名将と呼ぶには大きなマイナス面だし、曹操が関帝廟を祭るよう命令しなかったらそれほど人気は大きくなってはないと思います。



ただ部下から慕われるほどの忠義の厚さはあったのではないでしょうかね。

実際曹操も関羽のそういった人柄に惹かれたのかもしれませんね。



史実に関しても関羽の評価はいいと思いますよ。

演義でもかなりの脚色が多くてやり過ぎ感も感じられますが、ホウ徳の矢を兜の上を貫いて頭蓋骨に刺さってもピンピンしてたという超人めいた正史のエピソードもありますしね。



関羽の魅力は名将度よりも人物の大きさなのではないですかね。

それが今現在商売の神とされてる要因でもあるかもしれませんね。



張遼は孫権に遷都を考えさせるまで至っていませんね。

>建業は合肥から長江を隔てて離れているので、襄陽と許都の状況とは距離感も合わせて比較するのはちょっと無理でしょう。

それに許都はあまり守りには適してないし、建業は元々から城塞ですし長江もあって北からだと攻めにくいでしょう。







顔良に関してですが、劉備から手紙を受け取っていたという記録は特になく、関羽伝では関羽は数万人の敵兵の中に斬り込み、戦車に乗って指揮を執っていた顔良を自ら討ち取ったとあるので、文醜も討ち取ったというのは演義の創作ですが、顔良を討ち取ったのは史実ではないかと。劉備の手紙云々は演義から派生した話ではないでしょうか?



関羽の評価する所というと、龐徳伝が記す龐徳の矢を眉間に受けたのに指揮を執り続けた話や、無数の敵中に切り込んで顔良の首級を挙げるなど並外れた武勇には驚嘆します。また呉領や魏領の反乱を扇動したり、大雨を予想して河を封鎖できる程の大船団を用意したり、樊城攻めの為におびただしい数の牛馬や攻城兵器を入念に準備しておく抜け目なさも持ち合わせた名将のように思います。



まあ補佐役の潘濬や糜芳らと対立したり、廖立に「関羽は己の武勇に奢って、勝手な軍事行動をとり、預かっていた兵と領土を悉く喪失した愚か者だ」と批判されたりと欠点もありますが、劉備軍では指折りの名将だったと個人的には思います。







赤兎馬を乗りこなした。

曹操に礼をつくした。

劉備玄徳の奥さんを7つの関所を破ってまで、玄徳のもとへ送り届けた。

赤壁で曹操を義で持って見逃した。



他にもありますが、やはり、関羽の義の厚さがかっこいいです。

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