三国志に顔良と文醜という兄弟の猛将がいました。彼らは関羽というレンタル武将にあっという間に斬られました。
ここで気になったのですが、顔良は「奇襲」で斬られた感じで、文醜にいたっては「劉備について話そうとしたら斬られた」ような感じで表現されてます。
『互いに斬り合った』事実はあるのでしょうか?
また、事実がなくてはなっ、彼らと関羽が斬り合ったらどっちが強いんでしょうか。予想お願いします。
正確に言えば一騎でとはかかれていないですね。正史の記述では、
乱戦の中で顔良を見かけたので、突っ込んで顔良を刺し殺し、首を
持ち帰った、とあるのみです。
単騎で突っ込んだようにも見えますし、配下の兵と一緒に突っ込んだ
ようにも取れるのですが、中国と言うのはかなり初期から集団戦闘が
発展しており、個人の武勇で戦局をどうこうできるような戦いと言うの
は極稀です。この時の関羽ももし単騎で突撃したとすれば逆に匹夫
の勇でしかなく、評価を下げる格好になるので、私は配下の兵を率い
顔良本陣に突っ込んで刺し殺した、と言う風に考えています。
実際に斬りあったら、と言う意味では上記の通り、それは本来将軍の
行なう仕事ではないので何とも言えません。華北を代表する将軍、と
は言え、実際のところ二人とも目立った実績が無いので将としての力
量は不明だと考えます。
ただ、単騎か配下の兵と共にかは分かりませんが、大将を直接倒した、
と言うエピソードは正史上でもそう多くなく、関羽の武技は当時を代表
するに足るだけの力量はあったと思います。
人物が1000人以上出てくる中でのトップ10内に入るぐらいはあったと
思います。その順番は人によって変わってくると思いますが。
正史の三国志によれば、顔良と文醜はともに荀攸の策に嵌って敗死したことになっている。
文醜に関しては、魏軍の輜重隊を襲撃したところ、曹操軍に急襲されて大混乱に陥り、その混乱の最中に戦死したとあるだけで、特に関羽に討ち取られたとは書いていない。
しかし、顔良は間違いなく関羽に首を取られたようだ。
袁紹に一軍を任されて魏軍の一角に攻め寄せてきた顔良に対し、曹軍は背後を突く構えを見せた。
魏軍が後方に回り込もうとしていることを知った顔良配下の多くの軍は、当然のことながら挟撃を避けて撤退した。
しかし、顔良は、策士荀攸の思惑通り匹夫の勇を発揮して、退くことを潔しとせず、直属の僅かな兵力で突撃してしまったのだ。
それを見た曹操は、張遼と関羽に攻撃を命じたが、関羽は顔良を見つけると、ただ一騎で顔良軍の中に分け入り、見事に顔良を刺し殺して首を挙げたとある。
まあ、お互いベストな状態で一騎打ちとなったらどちらが強いかは分からない。
けれども、多勢に無勢という状況で自軍が袋叩きの目に会いつつあっては、顔良が本来の武勇を発揮できたとは思えない。逆の立場だったら関羽の方が討ち取られていたかもしれないだろう。
《追記》
演義ベースだから小説になるので、
正史ベースで小説は造れません。
現在刊行中の宮城谷昌光さんの「三国志」は、
幾分正史の匂いがしますが、
他の作家さんの「三国志」に較べれば・・・です。
ちくま学芸文庫の「正史三国志」全8巻が、
正史の訳本のスタンダードですから、読まれることをお薦めしますが、
あくまでも歴史書ですし、登場人物のパーソナルデーターの羅列なので、
はっきりいってとても読みにくい難点があります。
書店で手にとって、そのディープさをご体験ください。
正史全てを知ろうとするのは、かなりの労力を必要としますので、
興味のある人物や、出来事に思い当たったら、
人物名で、ウィキで検索されてはいかがですか。
↓Category:三国志の登場人物
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E...
ちなみに、「周倉」も架空とされる人物です。
質問者さんの仰る逸話は、
『三国志演義』での創作です。
たしかに、
関羽は敵軍の中にただ一騎で分け入って顔良を刺し殺し、
顔良の首を持ち帰った、と、
『三国志』魏書武帝紀、蜀書関羽伝に、記載がありますので、
信憑性はあります。
『演義』にある、関羽は呂布の遺品・赤兎馬を駆って突入し、
顔良は反撃の間もなく討ち取られてしまう。というのは、
『正史』の記載に3割がた脚色した、
関羽の豪傑振りを強調する描き方です。
でもこれは笑って許せる範囲です。
質問者さんの言われる、
顔良は、当時袁紹軍の客将だった劉備に関羽の人相風体を聞かされ、
もし出会ったなら、すぐに劉備の元に来るように伝えてほしいと頼まれ、
そして関羽と距離が近づいても、
話しかけようとするのみで応戦しようとしないので、
斬り捨てられるという余りにもお間抜けな逸話は、
明代嘉靖帝時代に書かれた「嘉靖本」という、
「演義」の派生本の更に注釈での話です。
「演義」に輪を掛けて、民間の噂話を集めた「蜀万歳本」です。
顔良は、袁紹軍の代表的な勇将で、あの孔融が勇将と評価した部将です。
剣も構えず、正体不明の明らかに敵方の部将が、
眼前に迫るまで、ボ~と立ち尽くしていたとは思えず、
それでは乱世を生き抜く力はありません。
関羽に討ち取られたのは事実でしょうが、
そのやられ方は明らかに酷い扱いです。
ただ、事実としては受け入れなければなりませんから、
関羽と一騎打ちしたら、二、三十合剣を交えた後、
切り捨てられるか、逃走するかだと思います。
文醜は、顔良と兄弟同然の仲とは言われ、義兄弟とされますが、
兄弟であるとの記録は「正史」にもありません。
「正史」では、文醜は、騎兵部隊を率いたことになっていますが、
曹操は延津で手薄になった文醜の部隊に攻撃を仕掛け、
文醜は混乱の中で戦死しました。
「演義」では顔良が討ち取られると、仇を討つために劉備と共に出陣し、
史実同様に輜重隊の罠にかかり敗走します。
追撃してきた曹操配下の張遼を弓で射落とし、
さらに徐晃をも退けるなど、名前に負けない活躍を見せます。
関羽には打ち負けて、
逃げようとする所を追いつかれて背後から斬殺されてしまいます。
これも「演義」お得意の関羽の過剰な持ち上げで、
額面どおり受け取れないと思います。
「正史」の通りだとして、名だたる勇将が、
混戦に巻き込まれ、乱戦で討ち取られる程度の部将だとすれば、
やはり、関羽クラスには適わなかったのではないでしょうか。
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