なぜ関羽が神になった?
いまさら聞けない疑問ですが三国志の関羽って関帝聖君として神格されているようですが
義に厚い男といわれていますが、どこかの本によるとあれは演義による捏造とされているとかかれています
史実では短期で強情なところが多く自尊心が極度に高い言われています。まるで張飛と似ています。
結局二人はそれが原因で無残な最期を遂げていますが、なぜ関羽だけは神となったのでしょうか?
私から推測すると昔の中国人が演義による勘違いで祀り上げられたのではないかと私は思います。
でも実際は違うのでしょうか?よろしかったらわかりやすくて納得のできる回答お願いします。
正史は歴史書、
演義は物語です。
民衆が受け入れるのは、物語であり、演義です。
史実がどうあれ、
民衆にとって関羽は演義に見えるような義に篤い人物でいいのです。
これは勘違いではなく、
民衆にとって、正史を読む機会などなく、
身近な演義に描かれる関羽像が関羽なのであり、
「自分も義に篤い人物でありたい」
「劉.関.張の義兄弟」は、
憧れであり、願望なのですから、
強情であろうがなかろうが問題ではないのでしょう。
また、関羽の演義での義に篤く、武神のように強いという評判を、
民衆の支持に結び付けようと時の王朝は、
関羽を神格化し利用しました。
11世紀始めの宋時代、
北方民族の侵略を救う英雄として、民衆の支持を得ようと、
1102年時の徽宗皇帝が「忠恵公」の称号を与え、
「護国の神(武神)」としました。(王朝が信仰を認めたわけですね。)
その後、宗の歴代皇帝に次々に称号が追贈され、
位はいつの間にか「公」から「王」へあがり、
元、明、清と王朝が変わっても関羽信仰は続き、
明の万暦22年(1594年)関羽の神霊を帝と尊称することに定まり、
すべての関羽の廟は「関帝廟」と呼ばれるようになりました。
清朝西太后は三国劇の愛好者だったといわれ、
劇中で関羽が登場する場面になると、
彼に敬意を表して起立したといいます。
当時の北京には関帝廟が116箇所あったそうです。
武神であった関羽が商業神、財神になったのは、
関羽の生まれ故郷である山西省商人、
特に解池で採れる塩を扱う商人が、
道教信仰と結びつけ、
義理と信頼を重んじる関羽を、
自分達の職業である商業の神として崇めることから始まりました。
白馬の戦いの後、
曹操の元を辞する際、与えられた金銀を残したことから、
義に厚いうえ金銭に淡白な関羽なら、
祈れば願いを聞き届けてくれるとの期待によるものだともいわれています。
また、沿岸部の船乗りや漁師など海の商人が、
船の床板一枚下は地獄で、
お互い助け合わなければならないとして、
劉.関.張の義兄弟が桃園結義で固い絆を結んだことから、
神様として信仰されたという説もあります。
横浜や神戸の港町に中華街が栄えてるのにも、
関係があるかもしれませんね。
ちなみに張飛も、
悪鬼が入り込まないための門神として、
関羽とペアでお札が貼られたり、
張飛廟として、疾病予防や蝗除けなど、
いろいろな生活に密着する害から守ってくれる神様として、
各所に祀られているそうです。
《追記》
一旦寝床に入って考えたんですが、
演義の体裁が整ったのは明代ですから、
関羽の神格化が始まった宋代ではまだ「平話」という、
言い伝えや昔話が流布していた時代ですね。
しかし北宋期には、
蜀漢が善、魏が悪、呉は日和見という、
演義の原型は出来ていたそうですから、
善の蜀漢の主役級の関羽が、
性格に厳しい所があって扱いにくい人物であっては、
やっぱりまずいでしょうね。
ご存知のように演義は、
蜀漢の連中は3割り増し良く書かれて、
魏の連中は逆に3割引で書かれるのが運命ですから・・・。
その原型の平話ではそれに輪をかけた描かれ方になりますね。
質問者さんの言われる勘違いではないですが、
誇張表現と言い換えた方がいいのかな?
天上天下唯我独尊という釈迦尊の至言があるように
強く誇り高い神というものは自尊心の塊のような存在であるべきなのでしょう。
それでいて、自らを慕う者、弱者には優しく怨敵は徹底的なまでの攻撃性を
もって撃滅する。
中国の関帝に限らず、北欧神話のトールや
インド神話のシヴァなど人気の高い神様には共通する事項ですね。
猜疑心が強く裏表が強烈、狡猾であり、世渡り上手な神様なんて
讃える側には迷惑なだけでしょう?
弱きを守り強気を挫く、多神教の文化を持つ人々が神様に望む理想像とは
口先だけの上辺ではなく、気性荒々しくとも「俺について来い!」的な親分肌の
弱者の味方を望むのだと思います。
シンプルでわかり易いですから、讃える側にもその神様が
どんな存在なのかも伝わりやすく
伝播もスムーズに行ったのでしょうね。
そういう意味では関羽とは
中国の方の気質にぴったりと符合し、同調を得るに納得な人傑です。
関羽が義に厚いのは捏造ではありません。
関羽が顔良を斬って恩義を返した件は、正史にもはっきりと記されています。
その前に張遼に対し「必ず功績を立てて恩を返してから去る」と明言しており、有言実行も成しています。
この事は地味な描写が多い正史ではより際立っており、むしろ他の描写が派手になった演義では、相対的に色褪せてしまっています。
また演義では派手な一騎討ちが大安売り状態ですが、正史にはほとんど一騎討ちの描写がありません。
その中にあって、大軍の真っ只中で、勇猛と名を馳せた大将を瞬殺するような描写があるのは関羽だけであり、正史の記述のみを重視すれば、個人的武勇では関羽は三国志最強の武将です。
その証左として、その後の史書では武勇を讃える際、「関羽の顔良斬りもかくや…」「関羽、張飛の武勇にも劣らぬ…」等と必ず関羽(たまにおまけで張飛)が引き合いに出されており、呂布等他の武将が引き合いに出される事はありませんでした。
また関羽が樊城を囲んだ際、曹操は狼狽のあまり遷都を言い出して、司馬懿等に諌められてようやく思いとどまったり、魏の謀臣達にも蜀随一の名将と評価されており、決して虚名ではない事が分かります。
結果として作り話である演義とは違い、派手さに欠ける正史の中にあって一際忠義と武勇が際立っているのが関羽であり、特に忠義の面が歴代の王朝によって重視され、神格化されたと言えます。
また演義の成立した明朝頃より前に、仏教で関羽は神格化されており、演義による勘違いで祀られたというのは誤りです。
ちなみに正史においても関羽と張飛は真逆の性格とされています。
張飛は目上や同格の人物に対しては敬う性格で、厳顔の剛直さを称えたり、他の同僚達と問題を起こす事もありませんでしたが、一方で目下の兵卒等には無慈悲であり、恨みを持った部下に殺されました。
逆に関羽は兵卒や庶民に対しては優しく、目上や同格の人物に対しては傲慢でした。
この目下に優しい部分がプラスに働いたのか、徐州では劉備に代わって内政を取り仕切り、荊州でも呂蒙に賞賛されるような統治を行い、政務においても優秀でしたが、逆に孫権(目上)や士仁、糜芳(同格)に対して傲慢に振舞ったため、身を滅ぼしています。
ソロバンの原型はカンウが発明したと聞きます。
それでお金の神様として祭られてます。
frogman03544さんのおっしゃる通り、史実を考えてしまってはいけないと思います。
まあ、『三国志演義』もその元になった『三国志平話』も、ある程度史実を元にしている部分はありますが(^_^;
関羽がプライド高く強情で、自分が格下とみなす人物は例え孫権でも見下す性格だったのは間違いないと思いますが、民衆が認めたのはその部分ではなく、義理堅く忠義に篤く私利私欲と無縁な部分です。
まさに義理と信用と金銭的公正を重んじる商売の世界にピッタリだとは思いませんか?
ちなみに張飛は張飛で、短気で粗暴で権威や名声に弱い性格ですが(関羽とはあまり似ていません)、一方で単騎でも敵に立ち向かう勇敢さと立派な人物に敬意を払う謙虚な面も持っています。
ここから悪者を退治し弱いものを守る勇気と力と優しさを持った人物(神)として、関羽ほどではありませんが祀られています。
関羽と張飛とで差がついたのは、frogman03544さんのご回答にあるように「国家が信仰を推奨したか否か」の差でしょうね。
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