三国志について。
西暦219年、ケイ州の最高司令官である関羽が殺害されて、天下三分の計は瓦解しますが、仮にケイ州をあのまま保持していたとして、
本当に漢中からと合わせた二方面作戦が成功していたと思いますか?
また、軍指揮の経験もあまり無く、ましてや政治的駆け引きが得手とは言えない『傲慢な』関羽を最高司令官にしたのは何故でしょう?
荊州を保持し続けていたとしても、荊州から軍を派遣する余裕があったとは思えないし、
人材もいません。よって二方面作戦は不可能でしょう。
また、当初から関羽を荊州の指揮官にしようとしていた訳ではないと思います。
元々劉備は龐統を参謀に入蜀し、諸葛亮は荊州に留まっています。
つまり、関羽に諸葛亮を参謀としてつけ、荊州を保持する計画だったと思われます。
しかし蜀攻略中に龐統が戦死したため、荊州から援軍を出す際に、
残っている将で荊州の守将が務まるのが関羽しかいなかった、ということでしょう。
軍指揮の経験のある将自体が、その時の劉備陣営にはほとんどいません。
ほとんどの戦いで劉備自身が大将として出陣していますし、
分けるほどの勢力になったのも初めてです。
消去法の選択だったといっていいでしょう。
これこそは劉備陣営の人材不足を物語る好例ではないのでしょうか。
関羽は本来、司令官という職には向いていない事は荊州の一件でもわかります。
剛毅でプライドが高く、とんでもないほどの肝っ玉を持ち合わせ、常に前線に立ち
自身の手で武功を立てたがる。
こんな人物に司令官という職は不釣合いにもほどがあったのでは。
第一、情誼優先で動くため、大局のために自己の考えを曲げないというのも
関羽が幾ら優秀な将とはいえ、大きな決定権を持つ重職には向かなかったのかと。
更に皮肉な事に関羽がその武勇を見せつけ、三国時代随一の猛将、豪傑として
後世に広く輝かしくその名を轟かせる事になった出来事は、曹操陣営に属していた頃の
顔良を斬った事が大きくクローズアップされており
この人事決定は劉備陣営の人材不足&劉備の人材を活かす目に欠けていた事を表している
ものなのではないでしょうか?
そうせざるを得なかった、劉備陣営の苦慮。
もしくは劉備の配置ミスが引き起こした失敗だったとも思えますね。
魏呉より脅威を持って語られる関羽の名に頼りすぎだったのかも。
その点、曹操は関羽の長所を上手く引き出す事に成功していましたよね。
前段:国力の差を考えると、二正面作戦で辛いのはむしろ魏より蜀である気がします。
後段:傲慢であるからこそ、軋轢を避けて重職かつ中央から遠い荊州の司令官に任じた、という可能性もあるのではないでしょうか。馬超や黄忠に対してもかなり敵愾心をむき出しにしていますし、彼が中央にいれば軋轢の原因となったかもしれません。
襄陽は曹操の勢力範囲じゃなかったか・・・
ifの話は何とも言いようがないですが、少なくとも益州討伐以前の劉備陣営に関羽以上の司令官はいませんよ。張飛は絶対留守番さてせてはいけない将軍だし孔明はそれこそ「軍指揮の経験」が全く無い。下っ端の趙雲などは論外。裏切る可能性が無く留守の間も軽挙な行動をしない(結局しちゃったけど)、戦闘経験も豊富で何よりその威名が四海に轟いている関羽しかいません。(実力は別にして)有名な関羽が守ってればそう攻め込まれる心配もないでしょう。魏と呉が虎視眈々と狙っていた荊州を7年以上守り抜いたのですから、十分よくやったといえるんではないでしょうか。
当時の政治は劉備のような武人や朝廷の官吏が中心ではなく、士大夫や豪族が中心でした。民の期待も士大夫に集まっていたとか。いかに戦争で領土を勝ち取ろうと士大夫の意見は絶対無視できない。その士大夫に敬意を払えなかったことが関羽の最大の欠点です。江陵陥落時に全く民衆の抵抗がなかったようですので、士大夫層が関羽に愛想を尽かしていたんでしょうね。
ケイ州と漢中の人口だけで成都の人口を余裕で越えます
また収穫される麦の量は成都の3倍近くありケイ州のジョウヨウ城は水路を完備して長安に次ぐ難攻不落の要塞です
またケイ州は中国南部の真ん中に位置し経済の発展都市で魏の首都である許昌に次ぐ大都市でしたので成功するでしょうね
役所や役人は県令と言って朝廷の職員でしたから関羽が無能だったとしても運営自体は役人にやらせて税だけ頂けたんですよ
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