2012年3月21日水曜日

三国志について質問です! 『三国志演義』でゎ、 関羽と徐晃が一騎打ちして、関...

三国志について質問です!



『三国志演義』でゎ、



関羽と徐晃が一騎打ちして、関羽の古傷が・・・

という話を聞いたのですが、詳しく教えてもらえませんか?




『正史』寄りの小説しか読んでないので、イマイチ演義のコトが分からなくて・・・







関羽が魏の樊城の戦いで曹仁軍の毒矢を腕に受けた。

一旦退却して治療をしようという所に名医の華陀がやってきて治療を施した。

この時、常人なら柱に縛り付けて行う(当時麻酔が無かった)切開治療を、関羽は碁を打ち酒を飲みながら悠々と受け、華陀を驚かしたという。

尚、華陀は麻酔を開発使用していたという伝説もあるが、この時は使わなかったようだ。

後に、曹操の治療に出かけた華陀は、手術を暗殺と思い込んだ曹操によって殺されてしまい、華陀の医学は後世にあまり残らなかったという。



華陀は、関羽に百日の療養が必要と告げて去ったが、戦陣の事、敵も百日は待ってくれない。

旧知の仲である魏の徐晃が戦闘を仕掛けてくると、部下や息子には任せておけず出陣する。

徐晃は関羽と挨拶を済ますと、「関羽を討ち取ったものには黄金千両をやるぞ」と言うや、得意の斧でうちかかった。

傷の治りきっていない関羽は、怒りと激闘で傷が開いてしまい撤退を余儀なくされた。

さらに、荊州方面が呉の策略と味方の裏切りですでに敵の手に落ちている事を知り、さらに容態は悪化した。



関羽らは麦城という小城に立て篭り援軍をまったが、比較的近くに居た劉封・孟達は援軍を出さず、蜀本土は遠すぎ援軍が到着する間で時間が掛かった為落城を待つばかりとなった。

死中に活を求め脱出を試みた関羽父子は策にはまって呉に捕らえられ、降伏を拒んだが為に斬首された。

享年58という。








より詳しい回答をしましょう。

まず、『三国志演義』のなかでも特に関羽の剛胆さを示した名場面ですが、正史にも類似した話があります。

内容は、演義同様、毒の染みた肘の骨を削り取る際、客をもてなし、酒肴を口にしながら談笑して、全く痛むそぶりを見せなかったということです。(但しこの時の医者は華佗ではない)。



演義での詳しいストーリはこうです。

①時代の流れ・・・ストーリーだけ知りたいなら飛ばしてください。

②質問のストーリー







219年、「劉備」が漢中王を称し、「関羽」は前将軍・仮節に任じられた。

この年、「関羽」は水陸両軍を率い、「関平」・「趙累」らとともに樊城を守る「曹仁」を攻撃し、援軍に駆けつけた「于禁」を降伏させ、「龐徳」を斬った。

その後、「曹操」の部下の「司馬懿」と「蒋済」は、「関羽」と「孫権」の仲が悪くなったことを見計らって、呉と同盟を結ぶ事を提案し「曹操」は「孫権」と同盟を結んだ。

これで逆に「曹操」は「孫権」の軍に挟撃されてしまう事になる。

さらに「孫権」は、「関羽」に不満を持っていた「麋芳」と「傅士仁」に誘いをかけ寝返らせ、江陵・公安を奪った。

一方の「曹操」も「徐晃」を派遣して「曹仁」を救援させた。





「関羽」は、その後の樊城の戦いで「徐晃」の毒矢を右肘に受けた関羽は本陣のある荊州に引き返すが、なかなか傷が治らない。

そこに「関羽」の負傷を聞いた名医「華陀」が江東より小舟に乗って傷の手当に来ると、「関羽」は痛みを紛らわせるために、ちょうど「馬良」と碁を打っているところであった。

「華陀」は傷口を見ると、トリカブトの毒が骨にまで到って青くなっていることを告げ即座に手術をすすめる。

「関羽」がどのようにするのかと尋ねると「華佗」は、「部屋の静かな所に柱を立ててそこに輪を打ちつけ、腕をその中に通して縄で固定し、顔を夜具で覆ってもらい、小刀で切開して骨に達した毒を削り取った後、薬を塗り糸で傷口を縫合して終わる」と微細に手術の方法を説明する。

静かな所で夜具で顔を覆うのは、武勇の誉れ高い「関羽」が手術の際に痛みに耐えかねて泣き叫ぶ声を部下に悟られないようにと、の立場をおもんばかってのことであろうし、輪に腕を通して縄で固定するのは、止血と手術部位の固定と考えられる。

「関羽」はこれを聞くと「そんな柱などいらぬ」と剛胆にいい、酒を数杯飲むと「馬良」と再び碁を打ちながら平然と「華陀」に手術をさせた。

手術中、「馬良」は、目の前でゴリゴリと骨を削る手術を見ていたので手の震えが止まらなかった。

手術後、「華陀」は怒気は傷に触れるから百日は怒らないようにと予後のことを説明し、一包みの塗り薬を置いて金も取らずに立ち去りました。 

後、「関羽」の傷は癒えたという話です。



*

不思議なことに「羅貫中(三国志演義の作者)」は「華佗」が考案したとされる麻酔薬「麻沸散」のことをここではふれていません。

麻酔に頼らないことで「関羽」の凄さを引き立てたかったのでしょうか。

「正史」では、樊城の戦いで毒矢を受けて荊州に引き揚げるが、「関羽」を治療したのは別の医者らしいです。

作者「羅貫中」が創作上どうしても名医「華佗」を名場面に登場させたかったのでしょうね。

ここが『三国志演義』の七実三虚といわれるゆえんですね。



ちなみに、荊州城内に「関公刮骨療毒処」という名所があります。

http://kankouha.cool.ne.jp/yiji/huazhong1.html

↑このサイトの真ん中より少し下付近に掲載されてますよ。







『正史』にも関羽が矢傷を受ける話は出てくるはずなんですがね。

『演義』は華佗が手術したり、手術中お客と酒を飲んだり囲碁を打ったなんてエピソードが出てきます。







あいまいな記憶で申し訳ないのですが



関羽は毒矢を腕に受けたことがあり、その治療のため腕の骨を削った。というエピソードがあったかと思います。

関羽が怪我した話はこれくらいしか思い出せませんでした。

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