三国志でめちゃめちゃマイナーな人を挙げてください!!!
あえて上げましょう。
関羽の名声があがる原因となり酒が冷める前に討ち取られたという最後の方には忘れられている武将。その名も華雄。
そこでもう一歩踏み出してみましょう。
関羽が戦う前に華雄に討ち取られたという韓馥軍の藩鳳。
そして袁術軍で猛将と呼ばれた兪渉。三合で討たれます。
以上、可愛そうなマイナー武将でした。
黄叙
黄忠の息子、マイナー度で言えば、超一級でしょう(笑)。演義には名前すら出てこないし、正史にも僅かに一行の記述のみ。
その生まれだが、これは長沙に間違い無いだろう。生没年は全く分からない。少なくとも220年より前に死去、という事だけだ。んで、たぶん長男である。「息子の黄叙は早死にして、後継ぎは無かった」と記されている以上、この子以外に子はいなかったと思う。
次に官職だが、これは全く分からない。黄忠は武官であった事がはっきり分かっているのだが、その息子はどうか?不穏な情勢とはいえ、騒動とはあまり縁の無い荊州南部である。当時の習いとして武芸の基礎程度は出来たはずだが、武官が務まるレベルだったかどうか?
穏やかな状況だ、ということを考えれば、ひょっとしたら読み書きをきちんと習っていた可能性もある。だとしたら、文書管理役である「主簿」だったかもしれない。「後漢書」に各郡県の職員名簿でも載せてあれば、こんな推論などをしなくてもいいんだけども...。
マイナーな人物というなら、陳寿の書いた正史では国の中枢に関わっていたらしいのに演義では一言も登場しなかったこの人でしょう。
ズバリ、蜀の征西将軍・永安都督、陳到・字を叔至です。
この人、劉備が豫州刺史だった頃(演義では呂布に徐州を追い出されて曹操の許に転がり込んでいた時期ですが、正史では陶謙への援軍として曹操と戦っていた時期らしいです)に配下に加わった人物で、孫乾・糜竺ら徐州以来の古参の一人なのですが、何故か演義では登場しません。
正史では趙雲に次ぐ人物だと言われ(もっとも、正史の趙雲は五虎大将軍の一角といった華々しい立場ではなく、劉備の親衛隊長や諸葛亮直属の特務隊長的な役目だったようですが)、諸葛亮の北伐時には李厳の副将として永安軍に駐屯しています。にも関わらず演義で登場しないのは、その役割が目立たない縁の下の力持ち的なだったのか、はたまた趙雲ら他の武将の活躍として羅貫中が置き換えてしまったのか。
もっとも、陳到とて『蜀書』に伝が立てられているわけではなく、蜀書の中の『季漢輔臣賛』で上記の評価をされているのですが。
「胡班」
関羽が曹操の元を去ったとき、暗殺の危機を救った人物。
この人がいなかったら・・・
曹豹。。。。。。。。。。。。。
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