三国志についておしえてください。
三国時代を広く見ると、
184年:黄巾の乱~280年:呉滅亡
狭い範囲で見ますと、
220年:帝位禅譲(献帝→曹丕)~263年:蜀滅亡
です。
内容を説明しますと、
400年続いた漢の世は弱体化し、疫病などが多発したため、太平道の張角が黄巾賊を率いて、各地で黄巾賊を反乱させました。この黄巾の乱は1年で終息しましたが、霊帝が倒れ何進が娘の子の少帝を立てたため、何進が中華の主導権を握りそれに不満を持った十常侍が何進を殺しました。しかし、十常侍を処刑されて董卓が何進の後を継ぎます。しかし、董卓の暴政により袁紹ら率いる「董卓征伐軍」が結成され、それにより首都洛陽は火の海に。そして、腹心の呂布らが董卓を暗殺してしまいます。そんな中、やがて曹操vs袁紹が急成長。天下分け目の官渡の戦いが起きて、曹操が勝利。これによって、長江より北は曹操が支配します。そして、もはや敵がいなくなった曹操は中華統一の為に南下しますが、赤壁の戦いで孫権軍が勝利。すでに曹操軍は広大な領土を支配していたので、滅亡までには至りませんでしたが、それまでの機動力はストップしてしまいました。その間に孫権軍は華南の東側を支配。劉備軍が諸葛孔明を配下に加え、荊南を統一し、更には蜀の劉ショウを統一し、弱小勢力に過ぎなかった劉備は魏に次ぐ勢力にまで成長しました。そして、曹操軍は馬騰を暗殺して馬超の反撃を受けますが、韓遂を裏切らせると西北地方を一気に制圧。徐々に勢いを取り戻しつつ有りました。更には漢中の張魯軍を降伏させます。しかし、漢中を狙っていた劉備軍は曹操軍から漢中を奪います。しかし、この隙に孫権軍は荊南に目を向けていたため、荊南を奪われ、義弟の関羽を処刑された劉備は孫権に対し、怒りを覚えます。その後、一世の巨人で有る、曹操は死に、子の曹丕が皇帝に即位して魏国を建設します。次いで、劉備が皇帝に即位し、蜀漢を建てます。その後、劉備が関羽のとむらい合戦とばかりに荊南へ侵攻するも、敗れてしまい、そのショックが元で死んでしまいます。その後は諸葛亮が孫権軍との同盟を再び結び、南蛮平定。そして北伐へ向かいますが、荊南を失い、またそれにより多くの将を失った蜀軍は魏に打ち勝つ力は有りませんでした。また、孫権軍は皇帝に即位し、呉を建国します。その後は263年の蜀滅亡まで、大きな領土の変化は有りませんでした。しかし、やはり序盤に曹操が華北を平定したのは、後の国力に大きく響いた様ですね・・・。
ではではここで小話を。
諸葛亮が五丈原で没した後、
長史の楊儀という人物が全軍を率いて撤退します。
これに反対した魏延は誅されてしまいます。
彼は自らが勲功第一だと思い込み、
亮に代わって政権を握ってやろうと考え
趙正というものに占わせた。
結果は、「家人」であった。
これは「柔順」、「貞静」を示すもので、
後に彼は舌禍がたたり自害させられました。
三国志のなにを????
釣りかな
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