三国志は結構フィクションが入っていますか?
今、日本国内でよく読まれている「三国志 著 吉川 英治」は7割がフィクションです。
(横山光輝の漫画は、吉川英治の本を基本にしていますので、こちらもフィクションです)
と、言うのも、吉川英治は中国、明代の小説「三国志通俗演義」を元に、
日本人向けに主人公達のキャラクターを改変させたからです。
さらに、明代の「三国志通俗演義」は、
宋代の小説「全相平話三國志」と、元代の講談「三国志」を
ミックスさせた話であり、これまたヤヤコシイことになっています。
つまり、
『三国志 (晋代、陳寿が記した歴史書)』
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『全相平話三國志 (宋代、色々な言い伝えと談義を元に、三国志を小説化)』
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『講談・三国志 (元代、三国志関連の講談をまとめた本が出る)』
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『三国志通俗演義 (明代、羅貫中が「三国志輩注」と「全相平話三國志」を元に書く』
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『三国志通俗演義 (日本、江戸期、湖南文山の訳で三国志が教養人の間で流行)』
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『三国志 (日本、戦前、吉川英治の書いた小説がバカ売れ)』
となっており、元になった歴史書の内容とはかなり異なっています。
しかし、明代の『三国志通俗演義 (ちくま完訳本)』を見ると、
意外に歴史書『三国志』と内容が合っており、
時代の推移によって様々なアレンジがなされ、
現在読まれるような「三国志」になったのです。
興味深いですね。
~閑話休題~
例えば、現在、『三国志』の主人公と言えば「劉備」とすぐ名前が出てきますが、
『三国志通俗演義』の主人公は明らかに「関羽」です。
日本では聖人君主のように描かれた「劉備」を主人公にした小説が流行りますが、
中国では義侠の人「関羽」を主人公にした方が小説が売れるのです。
国の違いだけでも、物語に差が出てくるのですね。
「正史」は歴史書なので、歴史上事実とされています。が私たちがよく知ってる「演義」はいくつかのフィクションをつけて華やかさを出してます。
分かりやすい範囲ですと、
桃園の誓い、呂布と劉備・関羽・張飛の決闘シーン、貂蝉(ちょうせん)のキャラ設定、夏候惇が自分の目玉を食う、諸葛孔明の七星檀、諸葛孔明の人物像、諸葛孔明の発明した兵器の一部、等々。
正史にはないストーリーが多々あります。
著書する人によっては、さらにオリジナルのフィクションを盛り込んでいますので数えればキリがないです。
三国志演義は、昔から「虚実三七」といわれています。「フィクション:史実=3:7」という意味です。
「演義」とは元より「史実を基にした小説」と言う意味ですが、「三国志」はフィクションが少ないほうなのです。
だから中国文学者の中には、「三国志演義は正史丸写しで、オリジナリティあるストーリーがなくて、つまらない。文学として独創性で劣る」と言う人もいます。
白話小説の最高傑作は、実在人物のほとんど登場しない「水滸伝」と言われていますし、同じ演義でも「宝貝(パオペイ)」が飛び交う「封神演義」や、武将よりも侠客が描写の中心である「隋唐演義」、岳飛と宗弼は天界で相争う神の化身だなどという(「天地を食らう」みたい)「説岳全伝」なんかにくらべれば、ずっと「まとも」ですね。
記録に残っていても、その記録じたいが怪しければフィクションとするなら
歴史は証拠写真がなければ記録映像がなければ
遺伝子情報など科学的な物象が無くて文書系の証拠だけなら
信用できないことになってしまいます。
(現代の医学検査で陽性反応が出てさえ検査を信用しない某関取もいます)
歴史が史実か否かは伝承元を信用するか否かで別れます、それを信用するかしないか
各々の判断です。信用する人もいれば信用しない人もいる、信用する人が多い場合
それは定説といわれ歴史教科書にまで載ったりします。
三国志は歴史媒体の娯楽としても人気があるため、それを史実と信用する人が
たいへん多いのでフィクションかどうかは大した問題ではないくらい
信用している人が多いし、それを否定して回るのは無意味ではないかと思います。
幕末という史実を舞台にしたるろうに剣神くらいフィクションが入っています。
「三国志演義」は、ほとんどがフィクションであると考えて読むべきでしょう。
正史「三国志」はある程度事実に基づいて書かれているはずです。
演義は結構多いですね。。。。。。。。
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