関羽を助けなかった孟達、劉封ですが手勢が少なかったと聞きます。
関羽を助けに行っても大軍に潰されて合う前に戦死したでしょうから彼らの判断は正しかったのではない
でしょうか?
劉封・孟達の判断どうのというより、2人は関羽の指揮下にないので論外です。
正史『三國志』蜀書劉封伝によれば、孟達は劉備の漢中攻略の際に房陵、上庸を攻略しています。孟達だけでは不安だというので劉封を追加派遣し、孟達の軍を掌握させています。2人は上庸の申耽を降し、上庸攻略を成功させます。
これは劉備の漢中攻略の一環と見るべきです。地理的にも漢中と上庸は隣同士で、漢中の魏軍への側面攻撃の性格を持っています。
関羽から援軍要請が繰り返されたのはそんな時でした。
関羽のいる襄陽、そして立て籠った麦城は漢中よりもずっと遠い。
君命を帯びての作戦行動中に全く関係ない軍事行動が取れるはずがありません。そんな決断ができるような権限も彼らには与えられていません。
また、上庸は占領したばかりで駐屯し民心を落ち着かせる必要がありました。軽々しく軍を移動させればせっかく占領した上庸は動揺し、最大目標であり同じく占領したばかりの漢中を放棄せざるを得なくなっていたかも知れません。
さらに、孟達は軍権を劉封に奪われた事で不満を持ち、2人の仲は険悪な状態でした。
蜀漢軍本体の作戦行動中に、占領直後の不安定な地域で、占領軍の指揮系統が乱れていて。そんな状況で援軍が出せたら奇跡です。
事実、孟達は関羽・劉封らと衝突した事で処罰されると考え、魏に寝返ってしまいます。その結果、蜀漢軍(劉封)の上庸支配は確定せず、劉封は引き続き魏軍(孟達)と対峙を続けます。
つまり、関羽がピンチだろうが死んでしまおうが、劉封の部隊には援軍を派遣する義理も余裕も無かった訳です。
そもそも関羽は節鉞を与えられて軍事専決権を得てから襄陽攻略を開始します。敗死したのは関羽の対呉戦略の失敗ですが、援軍要請自体も劉備に直接要請すべきだったという意味で関羽の失敗と言えるでしょう。
味方の窮地に後詰めを出さないと士気に関わる。
特に豪族の力が強い辺境に「劉備は関羽でさえ危なくなれば見捨てる、頼りにならない」と思われたら戦略的にマイナスが大きい。
だから劉封と孟達は危険を犯しても関羽を助けようとする姿勢は見せるべきだったし、
劉備は「劉封と孟達が個人的に関羽に含むところがあったのだ」ということにしないといけない。
下の方も言われるように戦略的には賢明だったと思います。ただ、関羽と劉備の絆の強さは、孟達はともかく劉封は知っていたでしょうし、関羽を見捨てたら劉備の怒りを買い、どのみち自分たちもただではすまないことを考えるべきでした(考えたにせよ浅かったと言うべきでしょう)。
普通ならそれでいいと思います。ただ、あなたは肉親が病院で亡くなりそうでも家でじっとしていられますか?それと似た感覚です。それにしても、関羽の側にホウ統がいないのが悔やまれます。彼がいれば人材育成面からも軍事面でもきっと孔明の手助けとなった筈です。
孟達、劉封の手勢が少なかったのですが、
関羽ならその少ない手勢を上手く使い
更なる援軍がくるまで持ちこたえたという見方もあるみたいです
あと例えどんな状況であれ、劉封の義理の父は劉備です
そして劉備の義兄弟である関羽を助けにいかなかったのが、
薄情に見えて悪く言うひともいるかもしれませんね
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