2012年3月9日金曜日

三国志 関羽の死について 教えて下さい

三国志



関羽の死について



教えて下さい







魏を追い込むために蜀と呉で組んで魏と戦っていたところ呉が裏切って?(一応共闘してた)関羽のいたところを追い詰めて呉に倒される。その後関羽の首ににらまれて?呂蒙が後を追うように亡くなるだったと。首を魏に送り付けて呪いを矛先を魏に向けようとしたが丁重に対応して・・・というエピソードも聞いたことがありますね。








劉備が益州を制すると、諸葛亮や張飛、趙雲らも益州へ入りました

関羽は江陵に残り、魏や孫権の荊州侵攻に備えていました

さらに、219年に劉備が漢中王に即すると、関羽は荊州の専行権を得ます

名実ともに、関羽は荊州を任されたというわけです



この年のはじめから、曹操は自ら出陣して漢中で劉備と争っていました

関羽は曹操のいない隙を衝いて北上し、曹仁の守る樊城を攻撃します

益州と荊州からの挟撃が実現したともいえます

曹仁の救援にきた于禁を捕えたりと、戦況は至極順調でした

しかし曹仁がギリギリでよく持ちこたえた為、だんだん持久戦の様相を呈してきます

そして関羽の性格が災いし、そのツケがまわって来ます



関羽には人望がありませんでした

張飛伝では、下級兵に優しいが文官(名士)に対しては横柄・驕慢だったとあります

(余談ですが、張飛は関羽とは逆で、名士が大好きでヘコヘコしていましたw)

また、文人官僚だけでなく他の将に対しても同様の態度を取ることが多々ありました

ヤッカミの強い人物であったということも例が多く挙げられています

馬超や黄忠が自分と同列の将軍号を得たことに反発したという話は有名ですよね

劉備や諸葛亮は、関羽が機嫌を損ねる度に彼を持ち挙げて機嫌をとっていました

つまり同じ劉備軍でありながら、関羽に好意を持つ将は少なかったのです

全てにおいて自分がナンバーワンでなければ気が済まない人の見本ですねw



さらに、関羽は劉備ですら自分とほぼ同列に考えていた節があります

孫権は関羽の力を警戒し、自分の娘との縁談を関羽に持ちかけたことがあります

しかし、関羽は使者を怒鳴りつけて罵り、縁談を拒否します

荊州という魏と孫権に囲まれた地域では、外交が非常に重要になります

国家の大事である問題は、本来主君である劉備に伺いを立てる必要があります

劉備にとっては孫権との関係を強固なものにするためには絶好の機会のはずでした

にもかかわらず関羽は独断で拒否し、罵るというおまけまで付けます

「キモヲタヒキニートのお前が作ったクソブス娘なんて貰うかよwバカじゃねぇのw」

孫権は自分のメンツも潰されてしまい、憤怒の淵に立たされました

荊州は劉備ではなく関羽の支配下と言っても過言ではない状況だったのです

ただでさえ人望が無い上に、荊州の将達にとってみれば、

「自分達は劉備様に従えているのに、なぜ関羽にコキ使われなきゃいけないのか」

というような思いに駆られていたのではないかということは想像に難くありません



司馬懿らの進言に従い、曹操は孫権に関羽の背後を衝かせようとしました

孫権にしてみれば関羽を除き、荊州を得る絶好の機会でした

孫権は曹操と協定を結び、呂蒙に荊州の攻略を命じました

関羽は江陵に麋芳、公安に士仁を配備して孫権に備えていました

しかし、彼らは関羽に好意を持たず、軽んじられていることを忌々しく思っていました

その為、孫権軍が侵攻してくるとたちまち降伏してしまいます

荊州の名士たちも、関羽から離反して孫権軍を迎え入れました

さらに北から徐晃の援軍が到着した為、関羽は麦城の囲みを解いて南へ逃げます

関羽は本拠地を失ったばかりか、魏と孫権軍に挟まれる形になってしまったのです

関羽は撤退した麦城で孤立無援になり、その後逃走中に士卒は四散、

そして逃走経路を予測して待ち構えていた孫権軍に捕えられて処刑されました



曹操は漢中から手を引いて、自身も対関羽征討の為に南下していましたが、

途中で徐晃が関羽を破ったとの報告が入った為に洛陽に戻りました

このとき既に曹操は病の淵にあった為、無理はできなたっかのでしょう

孫権によって処刑された関羽の首は曹操に送られました

呉歴には曹操が関羽の屍骸を諸侯の礼を持って葬ったとされていますが、

自身が重度の病を患っており、葬儀をいとなむ余裕があったのかは疑問です

関羽の年齢は不明ですが、50~60代ではないかと言われています



関羽の敗因は、前述したとおりその性格にありました

親劉備派の魯粛がいた頃は、魯粛の手腕で何とか保てていた同盟も、

強硬派の呂蒙が後を継いだ時点でほぼ崩壊したといってもいいでしょう

そんな状況下で自分を疎んでいる将に本拠地を任せたのは愚策でしたが、

自分の命を捨ててまで関羽の居城を守ろうとする将がいないのも事実でした

劉備は古参である関羽に過度な信頼を寄せていましたが、

関羽の性格を考えると、やはり荊州を丸々任せられる器ではありませんでした

関羽の失態で荊州を奪われたために、劉備(蜀)の天下統一の夢は断たれたのです



演義では関羽の敵は皆彼の亡霊にあって死にますが、もちろん創作です

たしかに曹操や呂蒙は関羽の死後すぐに亡くなっていますが、

2人とも以前から既に病を患っていたことがしっかり記載されています

実際に関羽を捕えたと言われる潘璋は、しっかり出世して天命を全うしています







孫権に捕らえられて、首を刎ねられた。



⇒ウィキペディアで調べた方が、詳しく載っています。

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