関羽が曹操を見逃した美談
これは、史実ですか?もしフィクションであれば、種はどの逸話ですか?
日本で三国志と言われる小説のおもは羅貫中の著した三国志演義を基盤にしたものが主流ですね。
関羽が曹操を逃がす場面や諸葛亮が先を見さだめて指示する場面は
すべて羅貫中の創作の作りだした話です。
歴史の事実ではありません。
羅貫中の筆から作られたものです。
三国志演義は蜀を正統とするために、
異常なほど蜀贔屓な羅貫中の書いた蜀に都合のよい作り話の物語小説ですから。
演義と史実の違いの解説書に書いてありました。
ちなみに関羽は確かに素晴らしい人物ですが歴史家の評価で書されているのは、プライドが高く入ったばかりの黄忠と五虎将とゆう同じ位が納得いかないと怒ったり、目上の名士層や文臣に対して横柄で驕慢であったとあり。文人官僚だけでなく他の武将達からも関羽は、同じ劉備陣営の武将たちに好意を持たれていなかったとゆうヤッカミの強い人物だったことも例が多く挙げられています。馬超が加わった時には自分とどっちが上だと問い、関羽が上だと返事したら、大いに満足してその手紙を人に見せまわったとゆう記述もあります。劉備の武将の中で自分が1位でないと承知しなかったようです。とあります(本伝)。
史実ではありません。ネタとなる逸話もありません。物語を語るうちに、誰かが付加したエピソードです。
ただし、
曹操が関羽を寵愛していたことは事実で、関羽が曹操の元から劉備の元へ逃げ帰る時に
関羽を追討しようとする家臣に対して「追うな。逃がしてやれ」と言ったのは史実です。
また、
孫権が関羽を切った後に、(曹操が関羽を寵愛しているのを知っていた孫権は)関羽の首を曹操の元に
送り届けたというのも史実のようです。曹操は関羽の遺骸に対して諸侯の礼を以て葬送したと記録され
ています。
正史には出てきません。フィクションです。それどころか桃園結義もフィクションです。
蜀書「関張馬黄趙伝 第六」の中の関羽伝にはそんな記述はありません。(正史三国志の日本語訳はあり、5巻が蜀書です。この巻は井波律子訳です。)このあたりでの関羽伝での記述は簡略で、曹公(曹操)を逃れて劉備は漢津へ行き、関羽の船と出会って夏口に到達したことがかかれ、そのあとは孫権が軍兵を派遣して先主(劉備)を救援し、曹公を防いだので、曹公は軍を引き、撤退した、とあるだけです。
三国志の原形は唐代にあったらしく、その後、宋代の蘇軾は三国志の辻講釈を子供が聞く話を書いています。元代の元曲にも物語の一部がとりこまれています。元代には講釈師の種本として「全相三国志平話」ができて一通りのStoryはまとまりました。しかし荒唐無稽な表現もあり、これをより合理的なものにしたのが十四世紀半ばの羅貫中の「三国志演義」です。庶民の中には「演義」とは別の民間伝承もいろいろあります。
そして「全相三国志平話」にすでにこの「華容の道」の話はあるようです。
【補足】まえの方の挙げられたサイトのうちの
從先主就劉表。表卒、曹公定荊州、先主、自樊、將南渡江。別遣羽、乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相值、共至夏口。孫權遣兵、佐先主拒曹公、曹公引軍退歸。
がその赤壁の戦いの部分に対応しています。
『蜀書(蜀志)』の「関張馬黄趙伝」に書いてあります。
ここで無料で読めます。
http://www.seisaku.bz/sangokushi.html
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