2012年3月23日金曜日

三国志や日本の武将は映画のように最前線で戦っていたのですか?

三国志や日本の武将は映画のように最前線で戦っていたのですか?







関ヶ原での島津の退き口で有名な「島津義弘」は秀吉の九州征伐において自ら抜刀して奮戦したと記述があります。

このように圧倒的に劣勢だったりすると本人自ら前線に赴いたりしますよね。



しかし、三国志で有名な諸葛亮などのいわゆる軍師は前線にでて闘ったりはしていません。

少なくともちゃんと鎧はきていたでしょうが・・・。



技術の進歩により、槍や刀が銃にとってかわられたように、戦争においても武将の役割というものがかわっていきました。

たとえば日本。

源平合戦や室町時代はまさに戦の華である「一騎討ち」が盛んにおこなわれていました。

しかし、雑兵の長槍による集団戦法など面での戦いが編み出されてから徐々に一騎討ちは廃れました。

なぜかというと一人の個の力では、集団の面に勝つことはできないからです。



三国志の前半は関羽や張飛といった豪傑達が活躍しました。

しかし、後半になると諸葛亮をはじめ、司馬イなどの知略で兵を動かし戦う。簡単にいうと将棋のように戦う時代にかわりました。



後半で主流になる戦いを先取りした曹操は、前時代の戦い方をしていた呂布や袁術などを破り、最後袁紹と雌雄を決して中原を治めることに成功したのです。



つまり、質問の答えですが、

時代、状況によって違う。って事ですかね?








戦いの規模によるでしょうね。



一隊あたり千人以下程度ならば、人と場合によっては最前線で戦う場合もあったでしょう。

この位の人数であれば兵士から直に大将を見ることが可能であり、白兵戦に強い武将の場合は士気の鼓舞にもなります。



一方、数千~数万人規模の戦いになると、大将がいくら敵を倒してもほとんどの兵からは見えませんので、リスクの方が大きくなります。

ましてや、大軍勢を率いる総大将の場合は完全にリスクが上回りますので、まず無かったでしょうね。



そこそこ名のある部隊長クラスや、大将の周りに控える親衛隊的武将は場合によっては小部隊を率いて突撃することもあったでしょう。

三国志に出てくる有名な武将あたりはそのような活躍が多かったと思われますし、「賤ヶ岳の七本槍」達もこれに当てはまるでしょう。



もちろん、三国志の時代の中国や戦国中期までの日本で、どの程度組織戦が順守されていたかは不明であり、中には理屈抜きでがむしゃらに最前線にでる困った大将も居たかも知れません。



戦国後期以降は組織が高度になったので、おそらく個々の役割もほぼ定まっていたと思います。

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