関羽の最期が三国志のターニングポイントですか?
吉川英治の三国志では関羽が死ぬまでを前三国志、孔明が北伐を開始して五丈原で病死するまでを後三国志と言ってもいい
というくだりがありました。
皆様はどこだと思いますか?
◆吉川英治さんの『三国志』は吉川英治さんが創作した小説なので、
吉川英治さん本人がそう言っているならそうなのだと思います。
しかし、歴史カテゴリでのご質問なので史実に基づいて考えるなら、
曹操がワイルドカードを手中に収めることになった「献帝擁立」、
あるいは漢末三国時代の天下分け目の戦いといわれる「官渡の戦い」が、
三国志のターニングポイントにあたります。
◆個人的には、
曹操が中原を制して事実上の天下を握った【官渡の戦い】こそが、
三国志のターニングポイントだと思います。
それ以降(「赤壁の戦い」含め)、曹操の天下を揺るがす出来事は、
史実では取り立てて起こっていないからです。
孔明が五丈原で病死するまでが前三国志、それ以降が後三国志です。
官渡の戦いでしょう。その戦い以降主導権は曹操がにぎりましたから。
「官渡の戦い」で間違いないでしょう。
袁紹軍(十万)vs曹操軍(一万)の官渡の戦いでしょう。
「黄巾の乱」以降を三国時代とするのが一般的。漢王朝の特権階級(豪族)代表の袁紹を非豪族の曹操(宦官の孫)が破った意義は大きい。この戦いによって漢王朝の特権階級組のアドバンテージが失われ、草鞋売り(劉備)や地方の小役人の倅(孫権)でも実力次第で上を目指せる道が拓けた。
「赤壁の戦い」という人は小説の読みすぎ。そもそも魏・呉・蜀が対等に争そっていたと考えていることがおかしい。当時の呉や蜀の人々は魏を「中国」と呼んでいたし、逆に魏の人々は呉や蜀の存在すら知らなかった。魏にとって呉や蜀はただの辺境。漢代で言えば公孫氏の遼東や士燮兄弟の交州のような独立国でしかない。皇帝を名乗るだけなら袁術だって僭称していた。
ちなみに赤壁の戦いは、曹操軍(十数万)と孫権軍(三万)が衝突したもの。風見鶏の劉備軍(一万。そのほとんどは劉琦の兵)は退却する曹操軍を追いかけただけなのでご注意を。
「官渡の戦い」以外でターニングポイントを探るなら、「soukyuunosasayaki」さんと「kawasakineko3」さんがご指摘されている「天子の奉戴」でしょう。実際、天子の奉戴がターニングポイントだったという中国の学者もいる。でも、官渡の戦いをターニングポイントだとするのが学者でも多数派。
しかし、多数派が正しいとは限らない。
ここでも正しい知識を投票で選ぶのに違和感がある。
吉川三国志で前後を分けるとしたら、
私は、関羽が死ぬまでが前半で、孔明が死んで後半で良いと思います。
董卓が死ぬまでがプロローグ、五丈原で病死以降がエピローグですね。
正史ならば、曹操が献帝を庇護し遷都した当りかなと思います。
演義は蜀が主役なんで劉備、曹操、関羽、張飛が立て続けに死んだあたりがターニングポイントでしょう。
そこまでが前で孔明や仲達らが主役になるのが後で。
でも実際の三国志では間違いなく官渡の戦いです。あの決戦で曹操の絶対優位が決まりました。
赤壁は実際は小規模な合戦だったようだし。
赤壁の戦いがターニングポイントです。
官渡は確かに曹操躍進の重要な転機でしたが、それはあくまでも曹操とその陣営の話。仮に官渡で曹操が敗れていれば曹操ではなく袁紹が一方の雄となった(であろう)というだけの話であり、劉備にも孫権にも、まして三國時代の到来にもなんら影響を及ぼしません。
しかし赤壁は、ここを突破すれば曹操による天下統一に向けて大きく前進するという大きな節目であり、曹操が負けた(撤退した)事が三國(三勢力)鼎立の直接の引き金です。
仮に曹操が赤壁で孫権を破っていれば、赤壁前に降伏した荊州に加えて揚州も獲得する事になり、全土の3分の2まで手にしていた事になります。しかし赤壁で敗れた事により孫権は勢力を保ち劉備は息を吹き返しました。
さらに重要な事に、赤壁は曲がりなりにも後の三大勢力が全て参加した唯一の戦いです。仮に大規模戦闘がなく疫病の蔓延による曹操の自主的撤退であったとしても、形としては間違いなく曹操が「負け」て孫権(と劉備)が「勝った」のであり、勝者2人が呉と蜀漢を興すのですから、「三國志」が「三國志」になるためのスタート地点はまさにここであるというのがよく判ると思います。
ただ、ひとつ注意して頂きたいのは、赤壁はあくまでも「三國鼎立」成立のターニングポイントでしかない、という事です。
同様に官渡や献帝奉戴は曹操躍進のターニングポイント、関羽の死は三國の軍事バランスの崩壊という意味でひとつのターニングポイントではあります。そういった転機はいくつもあるのです。しかしひとつだけ選ぶなら私は赤壁の戦いを挙げます。
【加筆修正】
赤壁の戦闘の有無ではなく歴史的意義をよく見つめ直して欲しいものです。それに、赤壁の結果でで三國が対等になるはずもないし(笑)。
官渡に関しては対等兵力の決戦のはずだという裴松之の指摘もありますよね。
弱小の蜀が昇り調子で
嵩が上がり続けていた栄光の時代ですからね。
劉備は漢中で、それまで天敵として聳えていた曹操に完勝し、
中原震動弾の関羽は寡兵をものともせず快進撃を続け北上。
あの時、呉の横槍がなければ、歴史も面白い方向に
転がっていた可能性も否定できませんからね。
最後のターニングポイントと、とも言えたかもしれません。
諸葛亮の北伐は個人的には、既に蜀にとってほぼ勝ち目のない
絶望的な戦だったと思います。
蜀だけに着目したらそうなると思いますが、
三国志全体で考えると、やっぱり赤壁の戦いでしょう。
曹操の勢いも弱まったし、劉備の蜀取りの足がかりにもなったのですから。
三国志の主役を劉備や諸葛亮や蜀に求めればそうなるんでしょうが、普通に考えれば赤壁の戦いでしょう。
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