2012年3月18日日曜日

三国志について。

三国志について。

一番強い武将と、

その武勇を教えてください。







ちなみに呂布という意見の方に付け加えると



人中の呂布、馬中の赤兎と呼ばれています。



ですが、呂布の弱点といえば二つ。



1.頭が悪かったこと

この時は陳宮が補佐として呂布の頭脳役を引き受けていました。



2.貂蝉に利用されたこと。

貂蝉はそもそも董卓のもとで奉仕していました。

ですが、暴君と言われた董卓の悪政が原因で反旗を翻した貂蝉の義父・王允がのちに殺されてしまったことから貂蝉が好きだった呂布を利用して董卓を討ちました。(ちなみに呂布は董卓の養子です)

そして用済みになった呂布は貂蝉にも裏切られました。



確かに呂布=1万の兵くらいの武力は持っていますね。

でものちに呂布が赤兎馬を送ったのは関羽でした。

だから関羽は呂布をも認める強さを誇っていたのではないでしょうか?



でも個人的に強いというよりも勝ち組だったのは司馬懿だと思いますけどね。(晋の基礎を築いたから)





暴走三輪車軍団少将 らせんのあひる








みなさんは呂布だと思いますが。

僕は趙雲だと思います。

曹操の大軍の中を阿斗を抱え駆け抜けるのは呂布でもできないんじゃないでしょうか。







・・・・・難しい質問ですね・・・・・。



中国史カテゴリでこの質問に書き込みをなさるような方々なら、

当然、ある程度以上三国志の知識を備え、

各々ひいきの将・ひいきの陣営をお持ちのはずです。



魏のファンなら張遼や許楮、夏侯淵・夏侯惇・張郃・・・



呉のファンなら甘寧・太史慈・凌操・凌統・・・



蜀のファンなら関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠・・・



ここに挙がらなかった将やほかの陣営の将

(例えば 袁紹配下の文醜・顔良など)

を推したい方もいらっしゃるでしょう。



当然、既に挙がっている呂布も推す方が多い将ですね。



楽しい質問ではありますが、

本気で語ったら収集がつかなくなる

ある意味大変な質問でもありますよ・・・・・。



私?

私が推したい将は・・・・・。

・・・・・ノーコメントで・・・・・。



<追記>



・・・・・こういうところで

「名前が挙がる(挙がりやすい)将の基準」

は何か?少し考えてみたのですが、思うに



「ゲームの影響」



が案外大きいのではないでしょうか?



私の上記書き込みに挙がっている17名は

「シミュレーションゲーム」

では大体100段階評価で90以上の

武力が設定されています。

(凌操・凌統親子は80台かな?)



そしてほとんどの場合呂布は

「ゲーム中唯一の武力100の将」

と設定されます。



これが、みなさまの頭にあるため、

「三国志最強武将=呂布」

という図式になるのではないでしょうか?



いかがでしょう?







私は呂布だとは思わないのですが…



呂布は数十騎で黒山賊の張燕の大軍を蹴散らしています。同じような事を郭シも数百騎でやっていますが呂布から郭シに一騎打ちを申し込み勝っています。



郭シは仲間に助けられています。



呂布は李広になぞらえて飛将、それと 人中の呂布 とも呼ばれました。



関羽は文醜と一騎打ちは、していませんが、かなり強かったと思います。



正史で回答させて戴きました





孫堅や関羽、他に誰か いるかもしれません。









やはり呂布ではないでしょうか



演技や正史などで多少話しが違うかもしれないけど



曹操の軍の武勇で優れた人たちの徐晃や張遼、その人たちを破った袁紹軍の文醜、顔良、またそれらをたった数合で倒した関羽。

その関羽と力では関羽以上と言われた張飛たちと二人(まあ劉備は・・・)相手にして互角にやりあったとか







呂布ですね!

呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたんで!



■武勇■

暴虐の限りを尽くす董卓の抹殺を目論む司徒の王允は董卓の信任を受けつつも密かに士孫瑞らと謀議をめぐらしていたが、一方で董卓の側近である呂布とも同郷であったため親しくしていた。あるとき、呂布が董卓に殺されかけた話[5]を王允にしたところ、王允は呂布に董卓暗殺を唆した[6]。初平3年(192年)4月[7]、ついに呂布は自ら刀をふるって董卓を殺害し、その恐怖政治を終わらせた。

自らを養子にまで迎えていた董卓の暗殺に加わった理由については諸説あり、董卓の侍女[8]と密通しており、それが露顕し処罰されることを恐れていたともされる。また、個人的な怨恨の他、并州出身者と涼州出身者間の派閥争いの結果とも言われているが、明確には判っておらず憶測の域を出ない。

董卓殺害後、王允は呂布を奮武将軍に任じ、節を与え、待遇を三公と同等にし、爵位も温侯に昇進させた。だが王允は呂布の献策を悉く退ける等して軽んじ、呂布も董卓殺害の功を誇った為、両者の仲は次第に悪くなっていった。また、呂布は董卓の部隊を皆殺しにすべきだと王允に進言する等、董卓の故郷である涼州出身者を恐れ憎んだので、呂布は涼州の人々に恨まれたという。それが原因の一つとなり、董卓の軍事力の基礎であった郭汜・李傕ら涼州の軍勢が首都長安を襲撃してくると、長安城内の蜀兵が李傕等の兵を城に引き入れた。呂布は応戦したものの防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた[9]。

呂布は数百騎を率いて武関から逃亡した。董卓の死から60日後のことであったという。

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