三国志から沢山の言葉やことわざが生まれたと聞きます。それらが生まれた経緯やエピソードを教えてください。
適当にかけるだけかいた。
白波なんか面白いのでは
白波:
災害者の弁:
盗賊のこと
黄巾賊の残党が白波谷という谷に籠って掠奪をしたことに由来する。
危急存亡の秋:
孔明さんの決意:
切羽詰まった状態・ぎりぎりの瀬戸際
諸葛亮が後主・劉禅に奏上した「出師の表」の冒頭部分にある言葉。諸葛亮は劉禅に決意を促した。
[奚隹]肋:
曹操の心中:
さほど重要ではないが捨てるには惜しいもの。
曹操が漢中を攻める際、劉備の防戦に遭い苦戦した。漢中は欲しいが、莫大な犠牲を出してまでは欲しくない。ふと漏らした[奚隹]肋という言葉を解釈した楊脩は退陣の支度を開始。他の大将もそれにならった。それを聞いた曹操は楊脩に怒り、且つ、その才を恐れ、処断する。(演義の創作)
月旦(評):
許劭の人物評:
毎月一日に行われる人物評
許劭と許靖が月ごとに人物を厳しく批評したことから生まれる。許劭は曹操を清平の姦賊、乱世の英雄と評した。
阿蒙:
魯粛の驚き:
しばらく会わないうちに見違えるほど成長した者のこと。
呉の魯粛が久しぶりに呂蒙に会い、話をしたときの話。毎日、喧嘩に明け暮れていた呂蒙がひとかどの博識者になっていた、か。魯粛はとても感激し「もはや君は呉下の阿蒙(昔のような馬鹿)ではないな」と呂蒙を褒め称えた。
自分の後任として呂蒙を孫権に推薦した。
三顧:
玄徳の食い下がり:
礼儀を尽くして賢人や有能な士を招く行為。
劉備が徐庶の薦めに従い、自ら諸葛亮を訪ね、何度目かにようやく会うことができた。(三顧の三は演義では三度だが、実際は再三の三であると推測される。)
死せる孔明生ける仲達を走らす:
策士仲達:
死んだ者の幻影におびえること。
第五次北伐において諸葛亮と司馬懿が五丈原で対峙した。しかし、孔明は陣没。(この後は演義の創作になる。)孔明が死ぬと蜀軍は退陣を開始。司馬懿は追撃を行うが、伏兵がおり、指揮を執っていたのは孔明(実は木像)であったため驚き、策略に嵌ったと逃げ出した。
水魚の交わり:
関羽・張飛をなだめる劉備:
君臣の親密な関係。→一般の親密な関係も含まれるようになる。
諸葛亮を登用した劉備が、あまりにも諸葛亮に頼るようになったのを見て、不満を持った関羽・張飛らを劉備がなだめる。その際に、私が孔明を得たのは魚が水を得たようなものだ、と言ってなだめた。(演義では、両者は納得せず、以後、張飛は孔明を「水殿」と呼ぶ。しかし、夏侯惇を撃退した手並みを見て、初めて、孔明の智謀に感歎する。)
泣いて馬謖を斬る:
孔明の不明:
私情を挟まず、規律を保つためにやむを得ず寵愛した者を斬る。
第一次北伐で諸葛亮は馬謖を先鋒としたが、馬謖は諸葛亮の忠告を守らず、魏軍に敗退。その才能を惜しまれたが、軍律を正すために処刑される。(泣いたのは演義の創作で、正史には書かれていない)
このとき孔明も階級を自ら下げています。
白眉:
伊籍の推薦:
意味は先の人の通り。
髀肉の嘆:
客分劉備:
運動をせず、怠けていたため贅肉がつき、嘆く。
劉備が劉表を頼って荊州に入り、月日が流れた。ある日、劉備は劉表の居館に招かれ盃を交わしていたが、厠にたった際、己の太ももに贅肉が付いていたことに気付き、愕然とする。昔は常に馬上にあり、贅肉などなかったのにと己の無為な日々を嘆く。
事を謀るは人に在り、事を成すには天に在り:
孔明の落胆:
作戦を考え、実行するまでは人間のすることだが、結果は天が決めることで人智の及ぶところではないとい
北伐の際の出来事。孔明は最大の敵である司馬懿(と味方だが危険人物の魏延)を
爆殺しようと企みた。孔明は司馬懿を火薬を敷き詰めた谷に誘い込み火を点けた。
司馬懿(と魏延)を爆殺寸前まで追い詰めたが、突然の豪雨で作戦は失敗。
「司馬懿は無理でもせめて魏延だけは消したかった・・」孔明は天を仰ぎ、
この言葉を呟いた。
悪、小なるも為すことなかれ:
劉備の遺言:
「善、小なるも為さざることなかれ」と続く。悪事はどんなに小さくても、してはならず、善行はどんなに小さくともしなければならないという意味
劉備が死の間際、息子・劉禅を戒めるために使った言葉。
臥竜鳳雛:
司馬徽の推挙:
諸葛亮(臥竜)とホウ統(鳳雛)のこと
劉備が荊州の大学者・司馬徽とあった際、司馬徽が、「伏竜か鳳雛、どちらか
得れば天下取れる」と劉備に語った言葉に由来。
兄弟は手足の如く妻子は衣服の如し:
劉備の励まし:
妻子はいつでも手に入る服のようなものだが、兄弟は手足と同じで失ったら二度と戻らない大切なものだという意味
徐州の城を不注意(泥酔して気持ちよく寝ていた)で呂布に奪われた張飛に劉備が優しく語りかけた言葉。
三国志とは違いますが、故事成語はたくさんありますね。矛盾、四面楚歌、臥薪嘗胆ですね。三国志から生まれ有名なのは、
「白眉もっともよし」
「泣いて馬謖を切る」
など馬家兄弟に関することが多いですね。
優秀と言われた馬良の眉毛が白かったことから、「白眉もっともよし」
もっとも優秀と言われた馬謖は、孔明の命に反し、山の上に陣を張り、そのほころびから蜀軍は大敗しました。
そのことから孔明は馬謖の罪を問い、斬首にしました。優秀で後継ぎと言われた馬謖を軍規を守るため、泣いて切ったことから生まれました。「泣いて馬謖を切る」
ただ、馬謖は病死したという説もあります。
春秋時代前後~宋までを記述した「十八史略」から
現在日本で使われている故事成語の多くが生まれたそうです。
三国志の時代と限定すると、数はむしろ少ないくらいです。
「三顧の礼」「苦肉の策」などはよく知られておりますが
私が好きなのは「白眉」です。同類の中で最もすぐれたものの意。
諸葛亮という名士を迎え基盤を整えた劉備の元には
各地の名士が集まるように。中でも馬氏の五兄弟は
名声も高く、兄弟揃って大変優秀でしたが
特に馬良という人が秀でており、馬良は眉毛が白かったことから
「白眉(はくび)」と呼ばれていたので、数ある中で一番優秀なものを
「白眉」と言うようになったそうです。
由来を知るって、楽しいですよね(^^
0 件のコメント:
コメントを投稿