三国志の関羽雲長と徐晃公明は何故、敬愛の関係なんですか!
横山光輝の三国志では関羽雲長と張遼文遠が敬愛の関係になってますがどちらと敬愛なんですか!
正史目線で言うと、
蜀書の関羽伝によると、徐晃と関羽は同じ河東の出身であり、
友誼を結んでいたとされます。
関羽と徐晃は、樊城の曹仁包囲戦で対面し、
旧知の仲ながら、
徐晃が、「関羽の首を挙げた者には賞金を与えよう」
と言ったため関羽が驚いて、
「大兄、何のつもりだ」
と徐晃が答えて、
「これは国事である。」として、
公私混同をしない、徐晃の武人気質が描かれます。
張遼と関羽は、同じく関羽伝に、
袁紹との白馬戦に当時曹操に身を寄せていた関羽が、張遼と共に、
先鋒を務めた際に、
曹操から自分に仕えるつもりはないかどうかを聞くように張遼に命じ、
それに答える形で、
「曹公には感謝するが、劉将軍に最後まで仕える。恩返しして去らしてもらう」
とし顔良を討ち取って劉備の元に向かいます。
その際に、張遼が、
「曹公は自分にとって君であり父である。関羽は兄弟にすぎない」
と発言したとされます。
関羽と徐晃は生年が不明で、関羽は亡くなった時(219年)を50歳として、
徐晃の病死時(227年)を当時の平均没年齢の53歳と仮定すると4.5歳年少。
関羽は同等若しくは自分より上のものには激しい対抗心を抱き、
下のものには優しく接したとされます。
ここでいう大兄は、言葉のあやでしょうし、
関羽にとっては、武勇も良くするかわいい後輩、
徐晃にすれば、憧れの先輩くらいの感情だったかもしれませんね。
ですので徐晃は関羽を敬愛していたようには思いたいですが、
関羽が徐晃に抱いていた感情は敬愛とはチョッと違うような気がします。
対して、
関羽と張遼(169年生まれ)はほぼ同年齢。
お互いプライドは人一倍高そうです。
発言にある兄弟も、同列だというニュアンスに取れます。
友誼というよりはライバルという感情があったのではないかと推測します。
ただ、関羽がどう思っていたかは不明で、
関羽の生き方から考えて、
張遼が丁原→董卓→呂布→曹操と3度主君を替えたという事実が
自分は劉備一筋だということもあり、実力は評価していたと思いますが、
何となくいけ好かない奴くらいに
思っていたのではないかと愚考しますが・・・。
張遼と関羽の間の感情は敬愛ではなく、
もっと複雑な感情ではないかと思います。
演義でも、
関羽と徐晃は、樊城の曹仁包囲戦で対面し、
同じような遣り取りがあったとされます。
張遼は、呂布に恂じるのを、
関羽が殺すには惜しい漢だからと曹操に命乞いをして助け、
下邳城に立て篭もり劉備に義を立てようとする関羽に投降を勧め、
一時的に曹操の庇護を受けるように骨を折るという、
正史と少し場面を変えた形で友誼があるように描かれ、
演義前半の名場面を演出します。
張遼の愛用する武器も関羽を慕ってか、
同じ青龍堰月刀としたのはやりすぎかと思います。
演義の描かれ方は、
徐晃と張遼が一時期同じ陣営に所属してこともあり、
武名の鳴り響いていた関羽のファンだったようなイメージを受けます。
関羽も二人を評価していたようですので、
演義目線でいえば、
それぞれお互いの間に敬愛の感情はあったと思います。
横山三国志は演義を基にしてます。
年齢とかの設定は特にありませんので、
どちらにも敬愛があるように描かれ、差はないと思います。
関羽伝の注に書かれた関羽と徐晃の会話はfrogman03544さんの挙げられている通りで、2人の間に交友関係があったと推測できますが、「兄」と呼ぶ場合には実際に歳上であると見てほぼ間違いないです。「親」「子」と呼ぶ場合にも同様で、実際に親子ほどの年齢差がなければそう呼びません。
なお、これは比喩表現を除きます。ですので張遼(呂布が徐州に逃れた195年に数え28歳なので168年生まれと見るべきです)が曹操(155年生まれ)つまり主君を父と呼んだ事例がこれにあたります。儒教の倫理においては、主君筋に当たる相手(特に天子)は親と同様に敬うものです。まあ13年違いますから実際に親子に近いほど離れているのも事実ですが(^_^;
ちなみに関羽の生年ですが、確証はまだありませんが、どうやら劉備とあまり変わらないのではないかと推測します。つまり160年前後の生まれではないかと。そうなると徐晃の生年は150年代後半ぐらいになるかと考えます。
ご質問についてですが、関羽が曹操陣営に所属していたのは200年の数ヶ月だけです。この間、主君たる曹操が関羽に惚れ込み、実際に官渡の戦い(白馬の攻防)で顔良を討ち取る功績を挙げています。徐晃・張遼ともに官渡の戦いに従軍しており、関羽の人柄・能力は目の当たりにした事でしょう。関羽と2人(あるいは他の諸将も含めて)に敬愛に近い友誼があっても不思議はありません。
三國時代は実は三國間での民間やプライベートな交流は割と盛んに行われています。王朗(魏)と張昭(呉)、許靖(蜀)らや、諸葛亮(蜀)と司馬懿(魏)の手紙のやり取りなどが史書に残されています。それならば関羽と2人との間にもそういった交友が続いていても不思議ではありません。
関羽は一時期曹操の客将として仕えていた時期があり、当然、魏の首脳陣とも面識はあったとされています。
曹操も関羽にほれ込んで幾度も引き抜こうとしています。君主がそうですから、魏の諸将が関羽の武勇や人柄を高く評価し、交際していた可能性はあるでしょう。
どちらが、というよりも魏の将軍全般に関羽に対する畏敬の念があったとしても不思議ではありませんね。
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