2012年3月9日金曜日

三国志の関羽は実際どのような風貌だったのでしょうか?

三国志の関羽は実際どのような風貌だったのでしょうか?







正史三国志の関羽の風貌についての記載は、

「頬ひげが美しかった。」のみです。



先の回答者さんも述べておられるように、

蜀書関羽伝で、諸葛亮が関羽に宛てた手紙に、



「…なお未だ髯の絶倫逸群なるに及ばざる」羽は美鬚髯にして

故に亮これを髯という。



諸葛亮は、馬超は未だ関羽の群を抜きんでた実力には及ばないと評して、

関羽の美鬚髯を意識して関羽のことを髯というあだ名で呼んで持ち上げています。

これが美髯公と呼ばれる由縁です。



ちなみに、演義では後漢最後の皇帝献帝が関羽に目通りした際に、

帝曰「真の美髯公也り!」因って、人皆此れを為ねて美髯公と呼ぶ。

という場面があります。



また、演義の大元になった三国平話(言い伝え、伝説の一種)には、

関羽登場の場面に、

「生まれつきの神眉、鳳目、虬髯」という容姿の表現が使われます。

虬とは「みづち」龍の子供で体がねじれています。

髯は、ほおひげ。カイゼル髯と呼ばれる先端が丸まった髯ですね。

(チョッとイメージが違いますが・・・。)



関羽といえば、赤ら顔で「熟した棗のごとし」と形容されます。

これも正史には記載がありません。

赤い顔についてはいろいろ説があり、

若い頃お尋ね者になって逃亡の最中に、

色が白くて目立つので、土地の長老だったかが、

これではすぐ見つかるというので、顔を殴って鼻血を出させて、

それを拭ったら顔が赤くなったとか、

更に髪の毛を毟り取って、唾で口の周りに貼り付けて、

立派な髭を付けて変装させたところ、

追っ手から逃れることができたという話が、

野史(言い伝えの一種)にあります。

逃げおおせた後、川の水で顔を洗いますが、いっこうに落ちない、

洗えば洗うほど、ますます赤くなって、あの赤ら顔になったとされます。



真っ赤な顔のままの関羽は関所まで行きますが、

姓名を聞かれたとき、関に掲げられている 「○○関」の看板を見て、

「姓は関」、青空に細長い雲が懸かっていて、雁が羽を一枚落としたので、

名は羽、字は雲長」と答えたという姓名の由来まで付いています。



ほかにも、道教の神様として神格化されているので、

五行説の南=赤を守護するとされるからとか、

忠義とか正義感が強い=赤心から、

赤がトレードカラーになったとかいう説です。



「水滸伝」巻十三では、登場人物の朱仝の容姿の表現に、

「面は重棗のごとく色は通く紅し、

雲長(関羽)の重ねてこの世に出でしか、人は美髯公と號ぶ」

とあります。



長身というイメージも、演義の影響だと思われます。

関羽の愛馬は、演義では呂布が乗っていた赤兎、

当時の驢馬に近かったであろう座高の低い馬と違って、

立派な体格であったろうとされる(これまたイメージ)

「赤兎馬」が愛馬ですので、

背の低い短足では跨れませんし、

物語に魅力が足らなくなってしまいます。

その武勇も相まって、立派な体格で見栄えがよくなければ困るのです。

正史に珍しく身長の記載がある、

今一つ線の細い趙雲の8尺(約184cm)より、

1~2寸(3~5cm)でも長身でないと・・。



正史を著した「陳寿(233年生まれ)」が、

三国志の主要な登場人物に実際に会ったわけではなく、

通釈をつけた「裴松之(372年生まれ)」にいたっては、

影も形も存在しない時代です。

歴史書ですから、いい加減なことを描くわけにも行かず、

見たこともない人物ですから、

かろうじて何らかの文献で確認できた事しか描けなかったはずです。

演義の羅貫中に至っては、

平話や野史をかき集めて物語に纏めたに過ぎません。

信憑性など二の次で、イメージ先行はしょうがないことです。



ですので、実際の風貌や体格は想像するしかなく、

赤ら顔で髯の立派な堂々とした風貌で、長身がっしりとした偉丈夫という、

恐らく質問者さんや、

大多数の三国志ファンの方が思い描くイメージなのだと信じたいですね。



ちなみに、

ひげの漢字は主に3つあって、

くちひげ(髭:シ):

清時代の辞典『説文解字』で「口上毛也」「くちひげ」



あごひげ(鬚:シュ):

後漢の劉煕が編纂した辞典『釋名』には「頤下曰鬚」とあり、

「頤」(あご、おとがい)の毛



ほおひげ(髯:ゼン):

『説文解字』では「頬須也」、

『釋名』では「在頬耳旁曰髯」(ほお・耳のそばにあるのが髯)「ほおひげ」



生える場所で漢字を使い分けます。



まだありました。

鬍(コ):刮鬍(カツコ)ひげにこすりつける、

つまりシェービングクリームですね。



鬚の元々の漢字である須:

後漢の許慎が編纂した漢字字典『説文解字』では「面毛也」とされ、

顔の表面の毛全般のことを指します。



現代中国語でヒゲは胡子(鬍子、フーヅ)というそうです。

「胡」とはもともとあご下にたれた肉のことを指すそうですから、

ひげといえば「あごひげ」を指すようです。



余計な豆知識でした。








記録から髭は蓄えていたと思われます。大柄でもあったと思われます。

でも物語の2m以上であれだけ長い髭と言うのは考えられません。







史書『三国志』に残る形跡は、

馬超が劉備の傘下に加わった際に、関羽による「馬超の実力は誰に匹敵するか」という書状に対する諸葛亮の返書に見えます。

「馬超は、文武の才能を併せ持ち、雄烈さは人を上回ります。馬超は一世の傑物というべきで、(楚漢時代の)黥布や彭越と同列でしょう。張飛ともよい勝負というところですが、しかし、ひげ殿の絶倫ぶりはその中でも群を抜いています」

関羽は頬ひげが立派だったので、諸葛亮は彼をひげ殿と呼んだのである、とあります。



美髯であったことは変わらないようです。よくいわれる赤い顔や九尺の大男というのは、後の世につけられた特徴のようです。

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